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都会の人々の生活
遊牧民(NOMADE)の生活
婦人や女の子、5、6歳くらいまでの男子は家事つまり食事を作ったり掃除をしたり、火を燃やすための薪を集めたり、ヤギや羊の乳絞り、または戻ってきたヤギ・羊を小屋に入れる世話をしたりする。またロバにポリタンクをくくりつけて水を汲みに行くのも主に子供、女の仕事である。井戸は時には5〜25kmも離れていることがある。いくら慣れているとはいえ、土地の人々にとって水汲みはたいへんな重労働だ。
食 事
モーリタニア人の歳 民族衣装
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そして女性がまとうのがメラッファ(melhafa) 。生地の名前でヴォワル(voile)とも呼ばれている。幅180cm、長さ4mくらいの薄いコットンの藍染めの布。 首から下に巻き付け、最後に頭の上をカバーしてふんわりと包む。藍染めした布を水洗いしないでそのまま身につけるので、肌や下着に色が移るが、虫除け、日よけ、寒さよけの意味があった。 最近はインド・パキスタンあたりから輸入される色とりどり、いろいろな模様のヴォワル地が市販されており、透けた布地になったので、下にひざ丈のワンピースを着るようになった。日本のカネボーという高級素材の物もある。縞模様、絞り染め、ツートーンカラーなど都会に行くほどヴァリエーションも豊かになり、流行などもある。モーリタニアでは同じイスラム教でも他のアラブの国々のように宗教上の理由で顔を隠すことはない。が、強烈な風や砂をよけるのになくてはならない衣類なのである。 モーリタニアでは、このブブーの男性とヴォワルの女性たちの姿が砂丘や土・石でできた建物と非常にマッチして絵の様に美しい。ただ、私達日本人がこれを着ようとすると裾はからまってとても歩きにくい上、頭の上はずるずる滑り落ちて瞬く間に着崩れしてしまい、外国人が着物を着るようにむずかしい。 |
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女性の問題 モーリタニアは1960年に独立し、それからわずか50年余り。独立当時、ほとんどの国民が遊牧民だった国民の生活の中には、現代の習慣とはだいぶ違う伝統的な風習が残り、今なお続いているものもある。 - 女性の肥満と強制肥満(ガバージュ)の問題 : モーリタニアは太った女性が豊かそうで美しいとされる。15,6歳の嫁入りの年頃になった時に痩せていると、その家庭は貧しいとか、きちんと太らせる家庭教育もできない家とみなされ、その為に少女が無理やりミルクを飲まされ、胃を大きくさせる強制肥満の習慣があった。強制肥満は後に糖尿病などの病気をひきおこし、また太りすぎで膝や腰痛を招くなど健康問題につながっている。政府は強制肥満は止めさせるよう指導しているが、習慣が変わるにはまだ長い時間が必要そうだ。 - 女性の地位 : 多くのイスラム圏の女性たちのように、モーリタニアの女性たちの地位は明治時代以前の日本人女性の生活に近いものがあった。15,6歳でお見合いのような形で結婚し、時には相手が50,60歳の老人ということもある。家事が下手だとか性格が悪いとかで男性側から一方的に離婚を言い渡される、そしてサイフは夫が握り、食材から衣類すべて夫が買うという家庭が一般的だった。 2000年になってからようやくその女性の立場が改善され、適齢期が少しづ遅くなり、離婚も女性から申し出ることが許された。2003年に女性の人権に対する法律ができ、選挙権も与えられた。しかしそれでも、地方の40代以上の女性の文盲率が68%にものぼり、60%が貧困線以下の生活をしているという(国連調査による)。 セネガル河流域、希望街道から南部に住む黒人系の貧しい男性たちは、都会に出て気に入った女性がいると簡単に同居する。赤ちゃんができて女性が「収入が少ない、食べ物を持ってきて」と言い立てると、そのうちフラリといなくなってしまう。残された乳飲み子を抱えた女性は、運よく養ってくれる男性とめぐり合えればよいが、そうでないケースのほうが多い。教育を受けていない女性たちは、働く先もなければ、自分で仕事をすることも難しい。親類や近所から食べ物を恵んでもらうこじきのような生活をすることになる。一方、フラリと出て行った男は、またどこかで気に入った女性といっしょに暮らし、先の子供の養育など微塵も考えない。 ヌアクショットのスラム街でインタビューした時、このような生活の男女の話ををたくさん聞いた。 - 女性器切除 : 少女の性器(クリトリスや小陰唇の一部または全部の切除、膣の入り口を縫合してしまう風習で、これも主に希望街道から南部の人々の間に残っている。かつては成人の女性に施されたのが、若年化が進み4,5歳から10歳の間くらいの少女が施術された。出産の陣痛を軽減する、受身なタイプになる、他の男性への性的欲求をしないなどの理由によるものだという。地方では衛生環境も整っていない中、専門の壮年女性がカミソリの刃などで切除し、大量出血や感染症などで死亡する子供もいた。 この女性器切除は国連大使のワリス・デイリーの「沙漠の女ディリー」に詳しいが、さまざまな弊害もあり、1990年ごろから世界的に排除が呼びかけられるようになった。しかし、こちらも女性の肥満同様、母親が切除することが嫁入りのための準備と考え、幼児を施術したがり、全面的な廃止にはいたっていないようだ。 |
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茶の儀式 モーリタニア人は世界でも有数なお茶の消費国だ。彼らは何かにつけお茶を飲む。自宅で、来客の時、オフィスで、テントの下で、ヤシの畑で、沙漠の中で、ガソリンスタンドで給油している間に、漁船の上で、そして食前、食後、食べ物が無い時・…etc. 朝から夜まで何回となく飲む。 日本の煎茶の儀式のように、モーリタニアもお茶の入れ方があり、子供の頃から親や親類に教えてもらう。200ccくらいしか入らないような小さなホーローのポットに水を沸し、途中お茶とかなりの量の砂糖を入れて沸騰させる。沸いたらおちょこのようなガラスの茶わんに70cm〜1mほど上から注ぎ入れる。これだけ高くかかげて直径3cmくらいしかないグラスに注ぎいれるのだから、こぼさずに入れられるようになるには年季がいる。お茶のセレモニーであり泡を作る為なのだそうだ。 注ぎ終わったグラスからお茶を再びポットに戻し、コンロで再び温めて再度、注ぎのセレモニーを繰り返す。こうして人数分に分けたものをお盆にのせてそれぞれに呈する。 お茶は何でも良いわけではない。SONIMEXというヌアクショットの公団が輸入した中国の緑茶 NO.8147でなければならないそうだ。これ以外のお茶では「しょんべん草」と嘲弄される。だから、モーリタニアではどんな田舎にいってもこの番号の入った木箱が売られている。場所によってはこれにミントを入れる。 お茶を全員に一回りすると、また同じ作法で入れ、3回出すのが普通。3回終わるまでに30分〜1時間かかり、その間におしゃべりをしながらいろいろな情報交換するのである。 モーリタニア人が旅に出かける時、衣服を忘れてもコンロと茶セットだけは絶対持って行くという程、モーリタニア人にとっては切っても切れない嗜好品なのだ。確かに、とても甘い飲み物だが、沙漠のカラカラに乾いた気候にあって、このお茶を飲むと喉の渇きがピタリと止まる。きちんと3食とれない人々にとって、エネルギー源でもあるのかもしれない。 お茶がアフリカに持ち込まれたのは15世紀。西アフリカにポルトガル船が運び込み、トンブクトゥーまでキャラバン隊が運んだ。ヨーロッパでお茶を飲むようになるのは17世紀、イギリスやオランダ人が輸入するようになってからのことである。 モーリタニアに「アテイ(atei)」といわれる茶の習慣がもたらされるのはそれから遅れて19世紀になってから。マラケッシュの茶道がアルゲン湾界隈の住人の間に広まった。それが鎮静の効果があるとしてアドラール地方に1870年〜1880年頃伝わり熱狂的なファンができた。南部モーリタニアに伝わるのは、20世紀になってフランス人らによるらしい。 |
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コップを高く上げて次々とお茶を注ぎ、泡をたてる。 | 1回のお茶は2口分程度。全員に回った後、再びお茶を立てる。こうして3回たてる。 | なつめやしの畑の中、休憩時間やランチの合間にお茶をたてる。やっぱり、3回 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
イムラゲンの漁師も船の上でお茶 | 砂丘の上でもお茶、 | アカシアの木の下でお茶 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
なつめやし なつめやしは「神様の贈り物」といわれ、メソポタミア時代から栽培されていたという。私達日本人がよく知っている椰子の実とは違い、細い軸に数十個のオリーブのような形をした実がなり、これが一本の木に数十本の束でなる。 実が青いうちは渋く、柿の味に似ている。最近、日本でもデーツと言って輸入食品売り場に見かけるようになったが、これは木になったまま乾燥させてたもの。干し柿に似た甘いドライフルーツだ。 なつめやしはモーリタニア内で栽培されているものだけで7、80種類もあるという。オリジンは不明だが、いろいろ掛け合わされたりして小さい実、大きい実、細長いのや太った実、乾燥すると黒くなるのやうす茶色、こげ茶色になるのなど、はちみつのようにジューシーなのからパサパサに干からびたものなど、いろいろなデーツがある。 木は雄株と雌株があり受粉させる。なつめやしの実が地面やヤシの木を覆っているワラ状の皮の間に落ちて、しばらくすると芽が出て小株に育ち、それを株分けして育てる。なぜか、やしの実の種を蒔いたものは育たないと信じられている。 なつめやしの収穫は7月末〜8月。収穫祭ゲトナ(guetona)と呼ばれ、モーリタニア人にとって一年で最大のイベントだ。遊牧民も都会の人もこの時期には先祖代々のヤシ畑のあるところに戻ってくる。この時期に家畜の餌になる木が近くにない時は、父親と手伝いの男子だけ単身赴任し、女子供らはヤシ畑のそばのキャンプで生活する。ほとんど毎日おなかいっぱいやしの実(まだ渋味の残る青い実)を食べ、夜になるとダンスタイム。楽器をならし、歌をうたい、口笛をならして躍る、毎日がお祭りのバケーションの時期だ。 遊牧民になりたいと願っていないモーリタニア人はいないという程、都会に住んでいる人々にとっても遊牧民の生活は切り離せない。だから、ゲトナの間休暇をとってキャンプに戻る都会のビジネスマンも多いという。 やしの木は、アカシアくらいしか木がない沙漠の人々にとっては貴重な生活必需品で、捨てるところがない。枯れた葉は垣根や屋根に、根や繊維はクッションの中身やラクダの鞍に、幹は家やテントの柱やトイレの敷板に、そしてヤシの木1本まるまる使って井戸の水汲み用のテコになる。 普通、モーリタニア人の家に食事に招かれるとまず、オードブルとしてなつめやしが出る。場所によってはヤギの乳から作ったバターやヨーグルトをつけて食べることも。毎日、ヤギや羊は口に入るとは限らない上、野菜がない土地柄、大事な栄養源だ。 |
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実が大きくなり始めたなつめやし。ゲトナ(収穫時期)が楽しみ! | やし畑の水遣り。今はモーターポンプで水をくみ上げるが、2005年くらいまでは、ほとんどが手でくみ上げるたいへんな重労働だった。 | 7,8月はナツメヤシが熟して、赤や黄色に実る。アタールやワダン、シンゲッティなど、場所によって種類が違い、収穫時期も違う。熟したヤシの実は日本の柿に味が似ている。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
井戸事情 サハラ沙漠を遠方から金や塩を運ぶキャラバン隊にとって井戸は命のかてだった。沙漠に点在するオアシス、つまりヤシの畑には必ず井戸がある。だから、旅人達はヤギの皮で作った袋に水を入れ、アオシスをたどって旅をした。 一方、遊牧民にとっても命の水。私達日本人ほど水を飲まないですむような習慣を身につけているが、沙漠の中を一日放牧して歩き回るので、井戸のある所を中心に生活する。 年々沙漠化が進むモーリタニアではその貴重な井戸が次々と涸れ、激減している。さらに深刻な問題は井戸の水位が下がっていること。水面が100m近くという井戸は、大人の男の力でもなかなかつるべを引っ張り上げることができず、ろばやラクダ、時には車にロープをくくりつけて引き上げる。 近年になって日本やヨーロッパからの支援で、南部の希望街道沿いに数百本の井戸が作られたが、北部やチジクジャから奥地の地域では相変わらず井戸は重大問題だ。 |
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2008年初頭、ヌアクショットの水道の普及率は30%。都会ではロバ荷車に乗せて水を売りに来る。 | 2008年、セネガル川からヌアクショットまで水道を引く工事が始まった。直径1.5メートルもある水道管がヌアクショットからロッソ傍まで並べてあった。 | 都遊牧民たちは、ヤギや羊の皮で作った水筒に入れ、日陰につるす。こうすると、気化熱で水筒の水が冷たくなる。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
歯ブラシの木 モーリタニアで医者と歯科医によるボランティア活動を10数年続けてきて、近年とみに砂漠奥地の人々の歯の事情が悪化している。質素な食事、流通が発達していなかったので砂糖が今ほど国内に普及しておらず、今のように甘いお茶を一日何杯も飲まなかった。そして、イスラム教の教えにしたがって、終日ソアクの枝で歯の手入れをしていたので、昔のモーリタニア人は真っ白の健康な歯だった。 さて、歯ブラシのない時代に、歯の手入れはどうしてきたのか。モーリタニアのソアクという歯ブラシの木はどんな木なのか? フランスの文献によれば、歯ブラシが初めて使われたのは中国で15世紀ごろだという。竹の軸に、イノシシや馬の毛をつけた歯ブラシがつくられていたらしい。ヨーロッパでは19世紀になってようやく一般に普及したらしく、それまで、ガチョウの歯根や銀、銅でつくられたつまようじで歯の手入れをいたという。 モーリタニアではようやく2008年ごろから歯ブラシが普及し始め、中国製の安い歯ブラシ、歯磨き粉が手に入るようになって、急速に普及しつつある。それまで、いや、今なお広く使われているのが、ソアクによる歯の手入れ。 ソアク(souak)は、ミスワク(miswak)、シワク(siwak)とも呼ばれ、バビロンの時代、約7,000年前から使われていた。その後、ギリシャやローマ帝国に普及、ユダヤ人、エジプト、イスラム教徒の間で使われるようになる。今日、アフリカ全土、南アメリカ、アジア(インドやパキスタン)、中東など広く使われている。 アラクの木:様々な効能 ソアク(以下、すべてこの単語で表記)は、アラブ語で”アラク”と呼ばれる木。学名はSalvadora Persica、西洋では”歯ブラシの木”と呼んでいる。サウジアラビア、チャド、スーダン、エジプト南部やインド、パキスタンなど広域に分布する1〜2mの灌木。木の枝の葉を落とし、熱湯やバラ水に数時間つけて柔らかくし、それを噛んで繊維質がブラシのようになったものを使う。 イスラム教では、-お祈りをする前、コーランを読む前、 -起きた時、 -長時間話をしなかった時、にソアクを使えと教えているらしい。預言者モハメットは特に目覚めた時に、アラクで歯を擦るのを好んだとされる。ソアクは、口内の滅菌作用、口臭を減らし、虫歯を予防、歯を白くする、歯ぐきに活力を与え収斂性をj強化する、などの効能があると言われている。 ソアクの効能について調査が行われたのは、2003年、アメリカの国立バイオテクノロジー情報センター(National Center for Biotechnology Information)[1]で、歯ブラシとしての効能があると結論づけた。一方、世界保健機構でも1986年、2000年[2]にソアクの使用推奨を発表している。研究によれば、ソアクの中に、歯を強くするフッソ成分と、歯ぐきの出血を抑えるビタミンCを含んでいるとされる。 また、スウェーデンのカロリンスカ口腔研究所での論文では、歯ブラシとソアクの比較実験を行い、ソアクを使うと歯のプラーク(0.001)、歯肉指数(0.01)を抑えるとし、ソアクを正しく使用すれば、歯ブラシより効果があると発表している。 ソアクの小枝やエリキシル剤は、利尿の作用や膀胱の浄化の効能があることから、中風や潰瘍の薬にもなっている。また、胃腸内のギョウチュウに効き、乳の香りがよくなると家畜の飼料にも加えられている。 近年、ソアクの成分を含む歯磨き粉が、モロッコやフランス、アラブ諸国などのナチュラルハウスなどで売られている。 ソアクをする子供の映像 |
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ソアクの木の枝 | ソアクを加えた子供たち | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
沙漠の覇者・ベドウィンのたどった道 |
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希望街道 (Route de l’espoir) ヌアクショットからモーリタニア南部を横断してマリとの国境ネマまで1099kmの舗装道路。1970年にかの有名なトランス・アマゾンを作ったブラジルの企業が落札、工事を開始した。このトランス・モーリタニアンを作るために、2000人以上の作業員が昼夜働き、400台以上のブルドーザーなど大型建設機械が稼動したという。 この工事がどのような規模だったか、1例をあげると、ヌアクショットから街道を進むと最初にある大きな町キッファ(604km) 、ここまでの舗装道路を作るのに10トントラックが450回機材を運ばなければならなかった。ともかく壮大な工事だった、しかも、冬でも日中30℃以上、夏の炎天下で50℃を越える中での過酷な作業だったか想像できよう。 ヌアクショットの町はずれ、貧しい住宅が建て並ぶ居住地区を抜けると、街道の周りにいきなり何もなくなり黄色やオレンジ色、ベージュなどの折り重なる砂丘が見える。これがトラルザ(Trarza)の砂丘。 53km地点、ウァッド・ナガ(Ouad Naga)村。土でできた民家と遊牧民とテントが入り交じって建て並ぶ村だ。 次にくるのが大きな町ブーティリミット(154km)。そして乾湖を過ぎるとこじんまりしたアレグ(262km)と続く。小高い丘の上にある、かつてのブラクナ(Brakuna)首長の中心地だったところ。このあたり一帯は広大な放牧地となっている。 希望街道はいくつもの丘を越えマグタ・ラハジャ(Magta’Lahjar)の町へ。小さな町のわりに日中、町の人々が往来にあふれごったがえす町だ。 村とも部落とも気がつかないほどのひっそりとした部落がカンガラファ(Cangarafa)で、ここでチジクジャへの分かれ道となる。 希望街道はタガン州を横断し続け、西へと向かうと、周り一面大きな大地の崖が見えてくる。とりわけデューク(Djouk)とカムール(Kamour)はから見下ろす谷間の景色は壮観だ。 続いてゲルー (Guerou)、広大なサバンナ地帯の中でラクダやろば、こぶ牛などが放牧されている。ゲルーは北部アドラール州の消え去った町チニギ(Tinigui)の人々が、移り住んで興した村だ。 タガンの隣、アッサバ州の中心、キッファ(604km)。キッファで何より目につくのはバンコと言われる泥で作った家々。ニジェールやマリの川沿いに多く見られるスーダン風建築を思わせる。 キッファから希望街道を離れて北へ160kmタムシュケットがあり、その先にかつての大きなキャラバン都市、今は遺跡の町となったアウダゴスト(Aoudaghost)がある。 希望街道の両側に大きな岩山が見えてくるとアイウン・アル・アトラス(Ayoun el Atrous), 819kmに着く。 広大なホッジ(Hodh)盆地の中に位置し、アッサバ断崖、タガン断崖、チシット断崖、ワラッタ断崖がホッジ盆地を取り囲んでいる。 続く小さな村チンベドラ(Timbedra)、そして希望街道の終点、ネマ (Nema)。 1985年に出来上がった舗装道路も、その後かなり荒れ果て、2000年に入って、ヌアクショットからキッファを通過し、チジクジャまで修復・舗装された。その先の修復工事も進められている。 参考 : モーリタニア地図 |
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沙漠化 もともと遊牧民の国民性、できることなら遊牧の生活をしたいと望んでいないモーリタニア人はいないという。ヌアクショットからネマまで約1100kmにわたってモーリタニアを横断する希望街道(Route de l’espoir)、かつては沙漠へ向かうことが希望だったのに、今では沙漠を抜け出し、都会に希望をつなぐ道路になってしまうとはなんと皮肉なことなのだろう。 沙漠化については、モーリタニアと沙漠化のページをご参照ください。 |
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進出する中国人 エネルギー分野では、とりわけ石油部門で、中国企業のCNPC(中国石油天然気集団公司)がモーリタニア国内3ケ所(ブロック12のヌアクショット沿岸油田、ブロック13,ブロック21のタウデニ油田)の開発契約を結んだ。タウデニ油田では既に探鉱掘削を終え、アエロ・マグネティク、重量分析の段階に入った。 |